ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1420年、百年戦争下のフランスにおいて、トロワ条約によりイングランド王ヘンリー5世が王位継承権を獲得した。


百年戦争におけるイングランド王ヘンリー5世の攻勢

西暦1415年のアジャンクールの戦いでフランス軍が惨敗した後、イングランド王ヘンリー5世はブルゴーニュ公ジャン無畏公と秘密協定を結び、更に攻勢を強めていた。

シェイクスピア作「ヘンリー5世」に基づくビデオのカバー(イギリスで購入) そんなヘンリー5世のヴァロワ朝フランスにおける戦いを描いたのが、シェイクスピアの「ヘンリー5世」だよね。(右の画像は、イギリスで買ったシェイクスピア作「ヘンリー5世」のビデオのカバー。)

ブルゴーニュ公ジャン無畏公の暗殺と
フィリップ・ル・ボン善良公の登場

そんな危機的な状況下で、イングランドとブルゴーニュ派の両者を相手に戦うアルマニャック派は危機感を強めていた。その挙句、西暦1419年9月には、王太子シャルル(後のシャルル7世)を中心とするアルマニャック派によるブルゴーニュ公ジャン無畏公の暗殺が起こったわけだ。

新たにブルゴーニュ公となったのは、ジャン無畏公の息子でシャロレ伯だったフィリップ・ル・ボン善良公。父公の暗殺によりフィリップ善良公は更にイングランドに接近していった。

他方で、人気のあったジャン無畏公が暗殺されたことで、フランスの一般大衆は王太子シャルルを盛り立てるアルマニャック派への反発を強め、結果的にブルゴーニュ派が勢力を拡大した。それをフランス王シャルル6世も無視できず、西暦1420年1月にはパリ市民に対して王太子シャルルの命令への服従を禁止している。

イングランド王ヘンリー5世がフランス王位継承権獲得

イングランド王ヘンリー5世が優勢に戦いを進め、王太子シャルルを守り立てるアルマニャック派に対してブルゴーニュ派が優位を得ていく中、西暦1420年5月にはイングランドとフランスとの間でトロワ条約が締結された。

その条約には、以下の規定があったんだ。

  • 王太子シャルル(後のフランス王シャルル7世)は王位継承権を剥奪される。
  • フランス王シャルル6世の娘カトリーヌとイングランド王ヘンリー5世が結婚する。
  • イングランド王ヘンリー5世はフランスの摂政となり、シャルル6世の死後にはフランス王となる。
ヘンリー5世と王女カトリーヌとは翌月に結婚し、年の暮れにはイングランド王ヘンリー5世がフランスの首都パリに入城している。(今ではイギリスの首都ロンドンからパリへ行くにはユーロスターがある。下の画像はユーロスターが到着するパリ北駅のホーム。)

イギリスの首都ロンドンからのユーロスターの到着するパリ北駅(フランス) イギリスの首都ロンドンからのユーロスターの到着するパリ北駅(フランス) イギリスの首都ロンドンからのユーロスターの到着するパリ北駅(フランス) イギリスの首都ロンドンからのユーロスターの到着するパリ北駅(フランス)

トロワ条約の締結後、王太子シャルルと彼を守り立てるアルマニャック派は更に追いつめられていく。条約が結ばれた西暦1420年の暮には、ブルゴーニュ公ジャン無畏公の暗殺に関する裁判が行われた。その判決によって、王太子シャルルは王位継承権を否定された上で追放されてしまった。

ついでながら、その裁判においてブルゴーニュ側に立って活躍したのが、後にブルゴーニュの大書記官となるニコラ・ロラン。ブルゴーニュのワイン取引の中心ボーヌにホスピス・ド・ボーヌ(ボーヌ施療院あるいはオテル・デュー)を創設した人物だね。

【参考】都市別ツアー検索


【参考】都市別ホテル検索


ブルゴーニュ公フィリップ善良公のディジョン入城

苦境に陥ったアルマニャック派だけど、王太子シャルルを中心に抵抗を諦めない。むしろフランス南部を中心に攻撃を続けていたんだ。ブルゴーニュ公領については、南部のマコンに対してアルマニャック派が攻勢をかけてきていた。

それに対処するために、西暦1422年にはブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン(善良公)がディジョンに入城している。(下の画像は中世ブルゴーニュ公国の首都ディジョンにある旧ブルゴーニュ公家宮殿。17世紀から18世紀にかけて増改築され、中世時代の建物は一部しか残っていないけどね。)

かつてのブルゴーニュ公国の首都ディジョンにある旧ブルゴーニュ公家宮殿(フランス) かつてのブルゴーニュ公国の首都ディジョンにある旧ブルゴーニュ公家宮殿(フランス) かつてのブルゴーニュ公国の首都ディジョンにある旧ブルゴーニュ公家宮殿(フランス) かつてのブルゴーニュ公国の首都ディジョンにある旧ブルゴーニュ公家宮殿(フランス)

このディジョンにおいて、ブルゴーニュ公フィリップ善良公は人々の忠誠の誓いを受けている。但し、トロワ条約でフランス王位継承権を獲得したイングランド王ヘンリー5世に関して、人々は忠誠を拒否したらしい。百年戦争が続くフランスの人々の国民意識が次第に形成されつつあったということかな。

【参考】都市別ツアー検索


【参考】都市別ホテル検索





イングランド王ヘンリー5世の死と事態の急展開

ブルゴーニュ派とイングランド王ヘンリー5世が、フランスにおいて着々と地盤を固めつつあったまさにその時、突如として事態は急展開した。西暦1422年8月、イングランド王ヘンリー5世が34歳の若さで亡くなったんだ。しかも、フランス王シャルル6世も同じ年の10月に亡くなってしまった。

ヘンリー5世とフランス王女カトリーヌの息子ヘンリー6世がイングランド王とフランス王になり、その叔父にあたるベッドフォード公がフランスの摂政となった。他方では、王太子もフランス王シャルル7世を称している。(但し、ランスでの戴冠式はジャンヌ・ダルクの登場後のことなんだけどね。この時点ではジャンヌ・ダルクは歴史の舞台に登場していない。)

ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン善良公の勢力拡大

イングランド・フランス両王の死および百年戦争の急展開の中、ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン善良公は着々と勢力を拡大していた。西暦1428年にはジャクリーヌ・ド・エノーと結んだデルフト条約により、オランダのいくつかの伯爵領の摂政の地位を獲得している。(やがて西暦1433年には伯爵位をも獲得。)

西暦1430年8月には、従兄弟の関係にあるブラバン公フィリップ・ド・サン・ポルの死去に伴い、ブラバン公位をも獲得。ブリュッセルやアントワープを含むブラバン地方(今のベルギーに属する)をも直接支配下に入れたわけだ。(下の画像はアントワープの市庁舎前にあるマルクト広場の風景。アントワープのノートルダム寺院では、ルーベンスの名画を見ることが出来るよ。)

アントワープの市庁舎前にあるマルクト広場(ベルギー) アントワープの市庁舎前にあるマルクト広場(ベルギー) アントワープの市庁舎前にあるマルクト広場(ベルギー) アントワープの市庁舎前にあるマルクト広場(ベルギー)

【参考】都市別ツアー検索


【参考】都市別ホテル検索


ブルゴーニュ公フィリップ善良公の漁夫の利

イングランドのランカスター王家とフランスのヴァロワ王家が争いを続けている限り、ブルゴーニュ公家としては漁夫の利を得ることが出来るという構図だよね。

ところが、必ずしもブルゴーニュ公家はランカスター王家とヴァロワ王家との争いを長引かせることに徹しなかったみたい。フランスの国民意識の形成ということも背景にあるのかもしれないね。また、あのジャンヌ・ダルクの登場も間もなくのこと。



関連書籍

参考になる・・・かもしれない本を探してみました。


次のページ


関連リンク

旅行記 「秋のブルゴーニュ(フランス)」

旅行記 「パリに住んだ・・・つもりの9日間(フランス)」
・・・ パリ、ロワール、シャルトル、ノルマンディ ・・・




姉妹サイト ヨーロッパ三昧 (旅・食・花)

ヨーロッパ三昧

イギリス・フランス・イタリア・スペイン・ギリシャ・トルコ・エジプトなどヨーロッパと香港の旅行記 25カ国42編を中心とするサイト「ヨーロッパ三昧」。

20カ国100店のレストランを紹介するコーナーや、ロンドンに住んでいた頃のガーデニング日記、日本国内を旅する四季の日本のコーナーなどもあります。


「ヨーロッパ三昧」のトップ・ページのURLは、 http://www.europe-z.com/ です。

姉妹サイト イタリア三昧+マルタ

イタリア三昧+マルタ

イタリアの旅行記5編とマルタの旅行記2編から構成される旅行記集です。画像の数も増え、大きさ・画質も改善して、本館「ヨーロッパ三昧」から独立しました。

「イタリア三昧+マルタ」のトップ・ページのURLは、 http://www.italy-malta-z.com/ です。

Copyright (c) 2004 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。