ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1663年、フランス王ルイ14世(太陽王)がスイス盟約者団と傭兵契約を結んだ。


絶対王政を代表するフランス王ルイ14世(太陽王)

フランス王ルイ14世(太陽王)の肖像(サン・ドニ大聖堂にて) 西暦1643年に幼くしてフランス王となったルイ14世(太陽王)、絶対王政を代表する君主だよね。

ちなみに、右の画像はフランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂の地下にあるフランス王家の墓地の一角にあるルイ14世の墓碑に刻まれた彼の肖像なんだ。

このフランス王ルイ14世は壮麗なヴェルサイユ宮殿を造営したことで有名だけど、同様に対外侵略戦争ばかりしていたはた迷惑な王様ということでも知られているよね。

そんな太陽王ルイ14世の対外侵略戦争を支えていたのが、実はスイスの傭兵たちだったんだとすれば、ちょいと驚いちゃうかな。

もちろん、太陽王ルイ14世の戦争を支えたのはスイス傭兵だけじゃなかった。フランス人も戦ったのはもちろん。そんな兵士たちの為にフランス王ルイ14世は西暦1671年にはパリにアンヴァリッド 廃兵院を設立している。その中には後にフランス皇帝ナポレオンのお墓も作られたけどね。

太陽王ルイ14世の戦争を支えたスイスの傭兵たち

西暦1663年、フランス王ルイ14世太陽王は、スイス(正確にはスイス盟約者団というべきか)と傭兵契約を締結している。その契約によれば、ルイ14世はスイスで6千から1万6千という多くの傭兵を徴募する権利を認められていたんだ。

スイスといえば中立を旨とする平和な国というイメージがあるよね。でも、中世のヨーロッパでは勇敢な傭兵を多数送り出す国として有名だった。アルプスの景色の美しいスイス(下の画像)だけれども、基本的に土地の生産力は十分出じゃなかった。だから、傭兵稼ぎをして得た資金で食料を輸入する必要があったわけだ。

スイス・アルプスの村の風景

しかも、西暦1477年にはブルゴーニュ公シャルル突進公を戦死させるなどによってスイス兵の軍事的な名声が高まっており、多くの君主たちがスイスの傭兵を求めていたんだ。

加えて、西暦1499年にはハプスブルク家と結んだバーゼル和約によって神聖ローマ帝国から実質的に独立したスイスではあるけれども、食糧安全保障の面からは周辺の有力国と友好関係を築き、食糧の輸入ルートを確保する必要があった。その手段の一つが傭兵契約でもあったんだ。

スイス傭兵とフランス王家との関係

ついでながら、数百年にわたって傭兵をヨーロッパ各国に送り出してきたスイスなんだけど、基本的にはフランス王家との関係を重視してきている。例えば、西暦1494年にイタリアに侵入したフランス王シャルル8世の軍の中には多くのスイス傭兵がいたらしい。(余談ながら、そのフランス王シャルル8世のイタリア侵入のあおりを受けて、イタリアの名家メディチ家はフィレンツェを追放されちゃったこともある。)

もちろんスイス傭兵はフランス王にとっても重要な存在だった。例えばスイスとの傭兵契約を更新できなかったフランス王ルイ12世はミラノの支配を失ってしまったんだ。

その後、西暦1521年にフランス王家とスイスとの傭兵契約は復活し、太陽王ルイ14世が締結した傭兵契約も西暦1521年の傭兵契約の更新契約だった。

ついでながら、西暦1572年のサン・バルテルミーの虐殺の際に、ルーブル宮殿(今のルーブル美術館)に滞在していたユグノー貴族たちを殺害するようにと命じられたのも、スイス傭兵たちだったらしい。

太陽王ルイ14世によるオランダ戦争

西暦1672年、太陽王ルイ14世は大軍をオランダに送り込み、オランダ戦争(あるいはネーデルランド戦争)を開始した。そのフランス軍には2万5千人ものスイス傭兵が参加していた。

オランダの風車 ところがオランダは低地地帯に海水を引き込んでフランス軍に抵抗した。しかも、外交で各国を味方に引き込んで和平に持ち込むことに成功したんだ。(右の画像はオランダの低地地帯で排水に使われていた風車。)

その後、西暦1678年に和平が成立。結局、太陽王ルイ14世の骨折り損のくたびれ儲けに終わっちゃったんだ。

フランス王ルイ14世によるナントの勅令廃止

オランダ戦争が終結して数年が経った西暦1685年、フランス王ルイ14世は祖父のアンリ4世(ブルボン家のフランス王初代)が定めたナントの勅令を廃止しちゃった。その結果、フランスから亡命したユグノー(プロテスタント)の一部はスイス西部に移住し、時計などの産業をスイスで発展させることになったんだそうな。

ところが他方では、スイスの中のプロテスタント派のカントンにとって、ナントの勅令を廃止したフランスは宗教上の敵になってしまったんだ。ツヴィングリの戦死の後にスイス国内においてカトリックとプロテスタントとの妥協が成立したとはいえ、宗教改革は未だに重要な問題だったからね。

プファルツ継承戦争・スペイン継承戦争とスイス傭兵

西暦1688年には継承者が途絶えたプファルツ選帝候領をめぐって、プファルツ継承戦争が勃発。スイスのカトリック系カントンはフランス軍に傭兵を提供したけれども、プロテスタント派のオレンジ公ウィリアムの軍にはプロテスタント系カントンが傭兵を出していた。つまり、戦場では多くのスイス傭兵たちが互いに血を流し合うこととなったんだ。

続いて西暦1701年に勃発したスペイン継承戦争では、フランス軍に2万3千人、神聖ローマ帝国・オランダ・イギリス連合軍には2万人、合計4万3千人ものスイス傭兵が敵味方に分かれて参加していた。

結果的にはフランス王ルイ14世の孫のアンジュー公がフェリペ5世としてスペイン王となった。その子孫が西暦1764年に建設したのが、下の画像にあるマドリッドの王宮なんだ。

スペインの首都マドリッドにある王宮 スペインの首都マドリッドにある王宮 スペインの首都マドリッドにある王宮 スペインの首都マドリッドにある王宮

その後のフランスとスイス傭兵

その後、西暦1723年にフランスとスイスとの間の傭兵契約は期限切れとなってしまった。太陽王ルイ14世がナントの勅令を廃止してユグノー(プロテスタント)を弾圧したことが影響したみたい。但し、スイスの中でもカトリック系のカントンは独立にフランスと傭兵契約を結んでいたらしい。

ところが西暦1777年には再びスイスとフランスとの間に傭兵契約が結ばれている。スイスの潜在的な敵であるハプスブルク家がスイスに攻め込むんじゃないかとの懸念が背景にあったんだそうな。

新たなスイス・フランスの傭兵契約は西暦1826年まで有効のはずだった。ところが、西暦1792年には打ち切られている。フランス革命が勃発して人々がテュイルリー宮殿(今はテュイルリー庭園のみ残る)を襲った際に約600人のスイス傭兵を全滅させたのが原因だった。

その後、西暦1848年のスイス憲法では外国との傭兵契約の締結は禁止され、公式的には西暦1859年に期限切れとなったナポリ王国との傭兵契約が最後になったんだ。

但し、今でもイタリアの首都ローマサン・ピエトロ大聖堂などではスイス衛兵が警護にあたっている。これがどんな契約に基づくのか、よくわかんないんだけどね。



いやあ、このページはとっても長くなっちゃった。書くのも疲れたけど、読むのも大変だったでしょ。ま、ここらでお茶でも飲んで休憩してくださいな。

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