ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1572年、ユグノー戦争下のフランスの首都パリを中心にサン・バルテルミーの虐殺が起こった。


王母カトリーヌ・ド・メディチが摂政となった

西暦1559年にフランス王アンリ2世が亡くなり、王と王妃カトリーヌ・ド・メディチの長男がフランソワ2世として即位した。(その王妃はスコットランド女王メアリー・スチュアートだった。)

ところが、フランス王フランソワ2世は西暦1560年に亡くなってしまう。王位を継承したのは、弟シャルル9世だった。その幼少の王の摂政となったのが、王母カトリーヌ・ド・メディチだった。(下の画像は、フランスの首都パリの郊外のサン・ドニ大聖堂フランス王家の墓所で見ることの出来るカトリーヌ・ド・メディチの像。)

フランスの首都パリの郊外のサン・ドニ大聖堂にあるカトリーヌ・ド・メディチの像

その頃のフランスでは、カトリックとユグノー(ジャン・カルヴァンの思想に従うプロテスタント)との対立が激化しつつあった。摂政となった王母カトリーヌ・ド・メディチは、両者の間の融和を図る政策を採ろうとしたらしい。

ユグノー戦争とブルボン家のアンリ

でも、西暦1562年にはカトリックがプロテスタントを虐殺し、ついにフランスのユグノー戦争(宗教戦争)が始まってしまった。

劣勢に立たされたユグノー(プロテスタント)は、ヘンリー8世が英国国教会を組織してローマと訣別したイングランドと交渉し、ロンドンの郊外にあるハンプトン・コート宮殿で条約を締結し、イングランドの支援を得ている。

そんなユグノー(プロテスタント)とカトリックとの間の内戦は、断続的に続いていた。対してフランス王の母にして摂政のカトリーヌ・ド・メディチは、ユグノーの指導者であるブルボン家のアンリと王の妹であるマルグリット(マルゴー)との結婚によって、フランス国内の融和を進めようとしたわけだ。

フランスの首都パリのノートルダム大聖堂の内部

そして西暦1572年8月18日、ユグノーの指導者ブルボン家のアンリと王妹マルグリットの結婚式がパリのノートルダム大聖堂で挙行された。といっても、プロテスタント(ユグノー)である新郎のアンリは大聖堂の外で待ち、新婦のマルグリットだけが大聖堂の中でミサに参加するという変則的な挙式だったらしいけどね。

サン・バルテルミー(聖バルテルミー)の虐殺

変則的な結婚式ではあったけれども、ユグノーの指導者であるブルボン家のアンリの結婚であり、その祝福の為にユグノーの貴族たちもフランスの首都パリに集まっていた。その一人だったコリニー提督が銃撃されたのは、ブルボン家のアンリと王妹マルグリットの結婚式の数日後だった。

イタリアのローマのヴァティカンを警護するスイス人衛兵 ユグノーの有力者であるコリニー提督の暗殺未遂を契機に、カトリックのユグノーとの間の対立は先鋭化していった。

そしてノートルダム大聖堂での結婚式から一週間も経たない8月24日、カトリックの指導者ギーズ公の兵士たちが療養中のコリニー提督を殺害している。

更には命を受けた王の配下のスイス人傭兵たちがルーブル宮殿(今のルーブル美術館)に滞在していたユグノー貴族たちを虐殺したらしい。(右の画像はイタリアの首都ローマにあるヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂を警護するスイス人衛兵。)

そんなカトリックによるユグノー(プロテスタント)の虐殺はパリにとどまらず、リヨンやボルドーなどフランス各地に広がったんだそうな。

他方で、カトリックたちの手中にあったユグノーの指導者ブルボン家のアンリは、カトリックに改宗することを余儀なくされていた。

サン・バルテルミーの虐殺のその後

フランスでカトリック勢力がユグノー(プロテスタント)を虐殺したことを聞いたハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世は、満足の笑みをこぼしたらしい。その例外を除いて、フェリペ2世は笑ったことがないらしいけど。(下の画像はイタリアのナポリにある国立考古学博物館でみたコインに描かれたスペイン王フェリペ2世の肖像。)

イタリアのナポリの国立考古学博物館で見たスペイン王フェリペ2世のコイン

といっても、このサン・バルテルミー(聖バルテルミー)の虐殺でフランスをカトリックが制したわけじゃない。例えば西暦1576年にはフランス南部プロヴァンス地方の古都ニーム(あのポン・デュ・ガール水道橋がかつては水を供給していた街)でユグノーがカトリックを虐殺しているんだ。

その後、シャルル9世の死後に王位を継承した弟のフランス王アンリ3世がカトリックの指導者ギーズ公アンリを暗殺したり、ユグノーの指導者のブルボン家のアンリがフランス王アンリ4世として即位したり、 ・・・ 。そんなこんなで諸々とあり、もちろんスペインなどの諸外国も干渉し、フランスを揺り動かすユグノー戦争は続いていくわけだ。

その後のアンリと王妹マルグリット

それから27年が過ぎた西暦1599年、アンリ4世とヴァロワ家の王女マルグリットの結婚は無効であるという宣言をローマ教皇が出している。その翌年1600年にはフランス王アンリ4世とマリー・ド・メディチが結婚している。メディチ家の財産が目当てだったという説もあるけどね。

その結婚式はイタリアのフィレンツェで行われ、新郎は忙しくて出席できず、代理人を出席させたらしい。アンリ4世は2度も結婚しながら、自分の結婚式に出たことが無いということかな。ちなみに、その新婦マリー・ド・メディチはフランス南部プロヴァンス地方港町マルセイユに上陸し、ローヌ川を遡ったリヨンで初めて二人は会ったんだそうな。

ちなみに、花嫁のマリー・ド・メディチはメディチ家の第2代トスカナ大公フランチェスコ1世の娘だった。そんな彼女をフランスに嫁がせたのは、彼女の叔父の第3代トスカナ大公フェルディナンド1世。彼はアンリ4世を支持し、更にはアンリ4世にカトリックへの改宗を説いた人物だったそうな。

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