ヨーロッパの歴史風景 先史・古代編




西暦476年、ゲルマン系の傭兵隊長オドアケルによって、西ローマ帝国が滅ぼされた。


略奪を受けたローマ

イタリアの首都ローマといえば「永遠の都」という言葉が浮かぶよね。でも、そのローマも破壊や略奪と無鉛ではなかったんだ。古代ローマがエトルリア人の王を追放し自立して120年ほどが経った西暦387年、ケルト系ガリア人によってローマが略奪されたことがある。

でも、古代ローマはそこから立ち上がり、シーザー(カエサル)初代皇帝アウグストゥスなどの英雄を輩出し、最大の版図を誇った皇帝トラヤヌスの時代には地中海とヨーロッパを支配する大帝国を築き上げたわけだ。そうなれば永遠の都ローマが異民族の略奪を受けるなんてことはあり得ない ・・・ はずだよね。

ところが、3世紀も半ばを過ぎると、強大な大帝国の首都の防衛に不安が生じたんだ。その結果、西暦270年に即位した皇帝アウレリアヌスはローマを守る城壁(「アウレリアヌスの城壁」)を築いたわけだ。(下の画像は今もローマに残るアウレリアヌスの城壁のピンチアーナ門の様子。)

イタリアの首都ローマを守るアウレリアヌス城壁のピンチアーナ門

そして西暦395年、古代ローマ帝国は東西に分裂した。西ローマ帝国の支配者となったのは10歳の皇帝ホノリウスだった。彼の即位の時の西ローマ帝国の首都はミラノだった。でも、北からのゲルマン系の人々の脅威を受け、守りに適したラヴェンナに都を移したのが西暦402年のことだった。

守りの堅いラヴェンナに引きこもったお坊っちゃん皇帝ホノリウス。そんな皇帝を支えたのがヴァンダル族の出身だった将軍スティリコだった。でも、お坊っちゃんは自分で帝国を思いのままに統治してみたくなった。そんな皇帝ホノリウスは将軍スティリコに陰謀の罪をかぶせ、西暦408年に処刑してしまった。

実力のある将軍スティリコを失い、西ローマ帝国の力は更に弱まった。そんな状況を観て、ゲルマン系西ゴート族の王アラリック1世はイタリアに侵入した。皇帝ホノリウスは軍を率いてラヴェンナに籠城するのみ。西ゴート族の兵は南下してローマを囲む。やがてアウレリアヌス城壁も破られ、ローマは略奪を受けたわけだ。紀元前4世紀以来、初めてのことだった。

ちなみに、このローマ略奪の際には皇帝ホノリウスの異母妹にあたる皇女ガッラ・プラキディアは西ゴート族に連れ去られている。(イタリアの古都ラヴェンナにはガッラ・プラキディア廟が残されている。但し、彼女の遺骸はローマのサン・ピエトロ大聖堂の脇の墓地に埋葬されたらしいけどね。)

フン族の王アッティラのイタリア侵入

皇帝ホノリウスは西暦423年に子供を残さずに亡くなった。東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世の支持を得て西ローマ帝国の皇帝となったのは、ウァレンティニアヌス3世だった。といっても、その時点で皇帝は4歳であり、摂政として統治を行ったのは母のガッラ・プラキディア(ローマから西ゴート族に連れ去られた皇女)だった。ちなみに、先帝ホノリウスはガッラ・プラキディアの異母兄であり、ウァレンティニアヌス3世はホノリウスの甥にあたる。

でも、やがて台頭してきたのは、軍人のアエティウスだった。やがてアエティウスがガッラ・プラキディアに代わって実権を握り、幼い皇帝ウァレンティニアヌス3世を補佐していくことになる。そして西暦451年、フン族の王アッティラがガリア(今のフランス)に侵入した。アッティラとの戦いに勝利を得たのがアエティウスだった。当然ながらその勝利はアエティウスの名を一段を高めたわけだ。

ところが、西暦452年にはアッティラはフン族を率いてイタリアに侵入してきた。西ローマ帝国の皇帝ウァレンティニアヌス3世はローマへ移った。首都ラヴェンナの守りを委ねられたのはアエティウスだった。ちなみに、このフン族の王アッティラのイタリア侵入の際の避難民がラグーンの島に移って生まれたのが、後に発展してヴェネツィア(下の画像)となったそうな。

イタリアの海の都ヴェネツィアの風景

ところが、南下しつつあったフン族の王アッティラは途中で反転し、アルプスの北へ去ってしまった。一説にはローマ教皇レオ1世が派遣した使節に説得され、破門を怖れて侵入を中断したとも言われる。でも、キリスト教徒でもないアッティラが破門を怖れるはずはないとの意見もあるんだけどね。

いずれにせよ、首都ラヴェンナを守っていた軍司令官アエティウスはアッティラのイタリア侵入に際して何の功績を挙げることもできなかったらしい。それを問題視したのが皇帝ウァレンティニアヌス3世だった。それを口実に実権を我が手に奪い返そうと考えた皇帝は、西暦454年に自分の手でアエティウスを殺害してしまった。

ところが、殺害された軍司令官アエティウスは、西ローマ帝国に使えていた多くの蛮族出身者に人望があった。そんな蛮族出身者が軍司令官殺害に怒り、西暦455年に皇帝ウァレンティニアヌスを殺害している。

ゲルマン系諸部族に擁立された短命な皇帝たち

以後、西ローマ帝国の皇帝たちは、極めて短い統治期間の間に次々と殺害されていく。しかも、その多くがヴァンダル族や西ゴート族などのゲルマン系諸部族によって、あるいは将軍たちによって都合よく擁立された。

まずは西暦455年に皇帝となったペトロニウス・マクシムスは、先帝ウァレンティニアヌス3世殺害の首謀者だったとの説もある。でも、その年の内にローマを略奪したヴァンダル族によって殺害されてしまった。

次の皇帝アウィトゥスは、ガリア(今のフランス)で西ゴート族の王テオドリック2世によって擁立されたらしい。でも、ガリア方面に勢力を持っていた将軍リキメルによって翌年の西暦456年に廃位されてしまった。(下の画像は今のフランスのブルゴーニュ地方にあるシャンベルタン村のブドウ畑の風景なんだけど、古代ローマ帝国の多くの人々が移り住み、ワイン用のブドウを栽培していたらしい。)

フランス東部ブルゴーニュ地方のシャンベルタン村のブドウ畑

廃位した皇帝アウィトゥスをすぐに殺害した将軍リキメルは、続いて西暦457年に皇帝マヨリアヌスを即位させた。その皇帝マヨリアヌスが自力で帝国を統治しようとしたことから、将軍リキメルは西暦461年に皇帝マヨリアヌスを暗殺している。

次の皇帝リウィウス・セウェルスは即位から4年後の西暦465年に亡くなっている。死因は定かではないけれども、将軍リキメルによって毒殺されたとの説がある。

皇帝プロコピウス・アンテミウスは軍をアフリカに派遣したもののヴァンダル族と戦わせた。けれども、西ローマ帝国軍はヴァンダル族の奇襲を受けて壊滅。逆にヴァンダル族はイタリアに侵攻し、ローマを略奪している。

イタリアに上陸したヴァンダル族の支持を得たオリブリオスは、西暦472年にリウィウス・セウェルスを殺害し、自ら皇帝となった。ところが、その年のうちに亡くなっている。自然死だったとされているけど、はてさて本当のところはどうなのか。

続いて皇帝に即位したのは、ブルグント族の支援を得たグリケリウスだった。ところが、東ローマ帝国の皇帝レオ1世はグリケリウスの西ローマ帝国皇帝即位を認めず、対抗してユリウス・ネポスを西ローマ帝国の皇帝とした。ユリウス・ネポスは軍を率いてガリアに進んだ。対するグリケリウスの側に立つはずのブルグント族は戦いを拒否。やむなくグリケリウスは降伏したらしい。

こうして西暦474年に西ローマ帝国の皇帝となったユリウス・ネポスだった。でも、アフリカやシチリアはヴァンダル族の支配下にあった。イベリア半島は西ゴート族の支配下にあった。ガリアはフランク族やブルグント族、西ゴート族が支配していた。結局、西ローマ帝国の皇帝の支配下にあったのはイタリア本土だけだった。

西ローマ帝国の最後の皇帝ロムルス・アウグストゥス

イタリアだけを支配していた西ローマ帝国の財政は厳しい。身の丈に合った財政支出とする為に兵力を削減せざるを得ない。ところが、解雇された兵たちを率いて反乱を起こしたのが将軍オレステスだった。オレステスは西暦475年に自分の息子をロムルス・アウグストゥスとして皇帝としたんだ。

その翌年の西暦476年、兵士たちが反乱を起こした。その指導者がゲルマン系のオドアケルだった。オドアケル率いる反乱軍はローマを略奪し、オレステスを殺害した。更にオドアケルたちはラヴェンナに進み、皇帝ロムルス・アウグストゥスを廃位した。ここに西ローマ帝国は滅亡したとされる。

イタリアの首都ローマのフォロ・ロマーノにあるパラティーノの丘

上の画像はローマのフォロ・ロマーノにあるパラティーノの丘の風景なんだけど、古代ローマを築いたとされるロムルスの宮殿もこの丘にあったらしい。しかし、古代ローマを築いたとされる人物と、西ローマ帝国の最後の皇帝とされる人物が同じ名前を持っているというのが、歴史の皮肉だよね。

という西ローマ帝国の滅亡についての話には続きがある。廃位された皇帝ロムルス・アウグストゥスなんだけど、ナポリに幽閉されたらしい。でも、オドアケルからは年金を受け取っていたそうな。そのオドアケルは東ゴート族の王テオドリックに殺害されたんだけど、代わってテオドリックも廃位された皇帝に年金を支払っていたらしい。

ところで、将軍オレステスの反乱に負われた先の皇帝ユリウス・ネポスなんだけど、この時点でもダルマチアでしぶとく生き延びていた。東ローマ帝国の皇帝ゼオンや西ローマ帝国の将軍たちはユリウス・ネポスを引き続き西ローマ帝国の皇帝と認めていたらしい。そのユリウス・ネポスは西暦480年に警護の兵によって殺害されている。その死を以て正式な西ローマ帝国の滅亡とする学者も少なくないんだそうな。

古代ローマ帝国衰亡の背景 ・・・

かくして西ローマ帝国は滅亡したんだけど、古代ローマ帝国が弱体化し、かかる事態に至った背景については諸説あるみたい。その中でもゲルマン民族大移動など異民族の動向は有力な説だよね。他方で興味深いのは、マラリアの感染による帝国の弱体化を主張する説かな。

西暦2016年12月のニュースによれば、イタリア各地に残る古代ローマ帝国時代の墓地で発見された遺体のDNA分析からは、熱帯熱原虫によるマラリア感染の証拠が発見されたらしい。そんなわけでマラリアが帝国滅亡の背景にあったとの説が浮上しているんだそうな。

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