サン・ロレンツォ教会にあるメディチ家の礼拝堂イタリアの古都フィレンツェといえば、そのシンボルが花の聖母マリア大聖堂(ドゥオモ)なんだろうな。でも、他にも見落とせない教会がたくさんあるよね。例えば、ブルネレスキの十字架像のあるサンタ・マリア・ノヴェッラ教会、ドナテッロの十字架像のあるサンタ・クローチェ教会、いまでは宗教画の美術館となっているかつてのサン・マルコ修道院などなど。
そして、もう一つ加えたいのが、サン・ロレンツォ教会。その中には、右の画像にあるメディチ家の礼拝堂(あるいは君主の礼拝堂)があるんだ。大理石の床にメディチ家の紋章が描かれているのが、見えるよね。このサン・ロレンツォ教会は、豪華王ロレンツォ・デ・メディチ(大ロレンツォ)の曽祖父にあたるジョヴァンニ・デ・メディチが修復したんだそうな。 フィレンツェから追放されたメディチ家上に名を挙げた豪華王ロレンツォ・デ・メディチといえば、ルネサンス期イタリアを代表する街フィレンツェを実質的に支配した人物だよね。でも、その嫡子である「不運のピエロ」の時、西暦1494年のフランス王シャルル8世によるイタリア侵入の余波を受けてメディチ家はフィレンツェから追放されているんだ。しかも、フランス王の軍に加わっていた「不運のピエロ」(ピエロ・デ・メディチ)は、西暦1503年にナポリ近くで溺死してしまった。(そんなわけで「不運のピエロ」。) メディチ家のフィレンツェ復帰しかし、豪華王ロレンツォ(大ロレンツォ)の次男にして枢機卿となっていたジョヴァンニ・デ・メディチは、スペイン軍の力を借りてフィレンツェに西暦1512年に復帰。弟のジュリアーノ・デ・メディチ(大ロレンツォの三男)と甥のロレンツォ・デ・メディチをしてフィレンツェを支配させている。そろそろ混乱してきた人もいるかな。ちょっと人物を整理しておこう。豪華王ロレンツォ(大ロレンツォ)の長男がピエロ(不運のピエロ)、次男が枢機卿ジョヴァンニ、三男がジュリアーノ。ちなみに大ロレンツォの弟もジュリアーノ。(メディチ家の歴史の中には同じ名前の人物がたくさんいるから、とってもややこしい !! ) そして不運のピエロの嫡男(つまり、大ロレンツォの嫡孫)が、やはりロレンツォ。区別のために「小ロレンツォ」と呼ばれるわけだ。 話を元に戻すけど、西暦1512年にメディチ家をフィレンツェに復帰させたジョヴァンニ・デ・メディチは、西暦1513年には法王レオ10世として即位している。ここにメディチ家はかつての栄光を取り戻したかに見えたんだ。 ミケランジェロの手による
法王レオ10世(元の枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチ)によって、弟のジュリアーノ・デ・メディチは法王軍総司令官に任命されている。そのジュリアーノが、西暦1515年にフランス王フランソワ1世の即位に際してフランスに派遣されている。その際に、ジュリアーノはフランス王の叔母と結婚し、ヌムール公に叙されているんだ。 |
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そのウルビーノ公ロレンツォは西暦1518年にブルボン家のマドレーヌと結婚。翌年には長女カトリーヌ(後のフランス王妃カトリーヌ・ド・メディチ)が生まれている。
メディチ家兄脈嫡流男系の断絶と弟脈による継承豪華王ロレンツォ・デ・メディチ(大ロレンツォ)の次男にあたる法王レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)は確かに存命ではあったけれども、結婚の出来ない聖職者であり、しかも若くはない。つまり、小ロレンツォの死をもって、メディチ家兄脈嫡流男系は実質的に断絶したというわけだ。しかも、法王レオ10世も2年後の西暦1521年に亡くなってしまった。以後、メディチ家当主の地位は豪華王ロレンツォ(大ロレンツォ)の血をひく庶出の男子が継承したけれども、やがて西暦1537年にはメディチ家弟脈のコジモ1世(黒備えのジョヴァンニの嫡男)に受け継がれていくわけだ。 メディチ家兄脈の不運を見るサン・ロレンツォ教会
イタリアの古都フィレンツェを舞台にメディチ家の栄光を築き上げた兄脈。サン・ロレンツォ教会の中の墓所にはメディチ家兄脈の人々の墓が残されているけれども、メディチ家兄脈全体の墓がサン・ロレンツォ教会(右の画像)だと思えるよね。ちなみに、コジモ1世以後メディチ家当主の地位を継承した弟脈も、西暦1737年に最後の大公ジャン・ガストーネが亡くなり、トスカナ大公位を失っている。
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