ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1559年、フランス王アンリ2世が死去。王妃カトリーヌ・ド・メディチは、亡夫が愛妾ディアーヌに与えたシュノンソー城を奪い返した。


後のフランス王アンリ2世とフィレンツェのカトリーヌ・ド・メディチの結婚

西暦1533年、フランス王家の王子アンリとイタリアのフィレンツェの名家メディチ家の令嬢カトリーヌ・ド・メディチの結婚式がフランス南部のマルセイユで行われた。(下の画像は丘の上にあるノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院から眺めたマルセイユの街。)

フランス南部マルセイユを丘の上のノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院から眺めた

当時のローマ教皇はメディチ家出身のクレメンス7世であり、ハプスブルク家の皇帝カール5世の宿敵であるフランス王フランソワ1世(新郎の王子アンリの父親)としては、メディチ家とローマ教皇との関係が重要だった。

まったくの余談なんだけど、フランスに嫁ぐ際にカトリーヌが持って行った「王妃の水」と呼ばれる香水があった。フィレンツェにあるサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の修道士たちが作ったものだった。その教会の薬作りを起源とする薬局は今も続いていて、現存する最古の薬局とされているらしいよ。という余計な話は置いといて、カトリーヌ・ド・メディチの話に戻るかな。

ところが、二人の結婚の翌年にはローマ教皇クレメンス7世が亡くなってしまった。しかも新しいローマ教皇は、フランスに敵対的な態度を示したんだ。フランス王家に嫁入りしたカトリーヌ・ド・メディチは、直ちに辛い立場に置かれたみたいだね。(そんな彼女の立場を知ってか知らずか、フィレンツェ大公コシモ1世と敵対するストロッツィ家の人々が彼女を頼ってフランスに来たりしていたらしい。)

ちなみに、後にブルボン家のフランス王アンリ4世もフィレンツェのメディチ家の令嬢であるマリー・ド・メディチを二人目の奥方にしている。そのマリー・ド・メディチはフィレンツェで結婚式(新郎は代理が出席)を挙げた上でマルセイユに上陸し、リヨンで初めて新郎に会ったんだそうな。アンリ4世がメディチ家の令嬢と再婚した理由は、メディチ家の財産が目当てだったとか ・・・。

フランス王アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディチ

西暦1547年、フランス王フランソワ1世が亡くなり、その息子がフランス王アンリ2世として即位した。その2年後の西暦1549年には、カトリーヌ・ド・メディチの王妃としての戴冠式が、フランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂(下の画像)で行われた。

フランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂の内部

その時点でフランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディチの二人の間には王子一人と王女二人が生まれていた。しかも、その後も数人の王子・王女が生まれている。

でもね、必ずしも王妃カトリーヌ・ド・メディチは幸せの極みだったかと言えば、どうもそうでもないみたい。夫であるフランス王アンリ2世は、18歳年上の女性ディアンヌを愛し続けていたらしい。カトリーヌ・ド・メディチが望んでいたロワール川近くにあるシュノンソー城も、ディアンヌに与えてしまった。

フランス王アンリ2世の死とフランソワ2世の即位

先代のフランス王フランソワ1世も先々代のフランス王ルイ12世もその前のシャルル8世もイタリア戦争の泥沼から抜け出すことが出来なかった。そして西暦1559年、フランス王アンリ2世はハプスブルク家と和約を結び、スペイン王フェリペ2世ハプスブルク家の皇帝カール5世の息子)と自分の王女との婚約を結んだんだ。そして、いよいよ結婚式の祝いの為の馬上槍試合に出場したフランス王アンリ2世は、相手の槍によって重傷を負い、10日後に亡くなってしまった。

ちなみに、西暦1555年には「ノストラダムスの大予言」がフランスで出版されている。そのノストラダムスをフランス王アンリ2世夫妻がパリに呼び寄せて謁見したらしい。その際にノストラダムスはアンリ2世の死を予言したとか、しなかったとか。彼の予言詩は解釈が難しいから、様々な説があるとか。

フランスの首都パリの郊外のサン・ドニ大聖堂にあるフランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディチの像

上の画像は、パリ郊外のサン・ドニ大聖堂にあるフランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディチの像なんだ。サン・ドニ大聖堂にはフランス王家の墓所があり、フランス革命で処刑されたフランス王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットなどの墓もある。

他方で、アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチの長男がフランス王フランソワ2世として即位した。その王妃は、前年にパリのノートルダム大聖堂で結婚したスコットランド女王のメアリー・スチュアートだった。

そのフランソワ2世も若くして亡くなり、その弟のフランス王シャルル9世が即位した。西暦1564年にはフランス王シャルル9世と王母カトリーヌ・ド・メディチが大巡幸に出発している。彼らは古代ローマ帝国時代の水道橋ポン・デュ・ガールも見に行ったんだそうな。

その大巡幸の途中で二人はフランス南部プロヴァンス地方の街サロンに予言者ノストラダムスを訪ね、更にアルルの街にノストラダムスを呼び出して顧問としたらしい。つまり10年近く前にノストラダムスと会っている王母カトリーヌ・ド・メディチは彼の予言を信頼していたということなのかな。

カトリーヌ・ド・メディチとシュノンソー城

フランス王アンリ2世の死後、常に喪服を着るようになった王妃カトリーヌ・ド・メディチは、シュノンソー城(下の画像)をアンリ2世の愛妾だったディアーヌから取り返している。といっても、ディアーヌには代わりの城と財産を与え、老後の暮らしに困らないようにしたらしいけど。

フランスのロワール川近くにあるシュノンソー城の水辺の姿

なお、常に喪服を着るようになったとはいえ、王母カトリーヌ・ド・メディチが静かに質素に暮らしていたわけじゃないみたい。例えば西暦1563年には、首都パリにテュイルリー宮殿(今はテュイルリー庭園のみが残る)の造営を始めたりしているからね。でも、カトリーヌ・ド・メディチの残りの人生は苦しい日々だったろうな。これから様々な出来事が彼女を待っているんだ。

余談なんだけど、カトリーヌ・ド・メディチが造営したテュイルリー宮殿は、ルーブル宮殿(今のルーブル美術館)の隣にあった。そのルーブルを城砦から宮殿に改築し始めたのがフランス王フランソワ1世だったんだけど、その改築を完了させたのは、カトリーヌ・ド・メディチの夫のフランス王アンリ2世(フランソワ1世の息子)だったらしい。

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